話したいこと
癒されるのと逃げることの境界線はどこにあるのですか。ネットにある 鬱病判断のチェック項目に当てはめて ほとんど当てはまってる私鬱病かもしれない と 大学で言ったあの子の神経が欲しいのです。どこの誰が作ったかも分からない鬱病診断を疑いもせず素直に受け入れたあの子の神経。チェック項目は一般人でも当てはまるようなことばかりが書かれているのに。こういうことを書くと 自分はいつまでたっても大人になれない子供のようで悔しいのです。哲学をいい歳にもなって学んでる人は恥ずかしいという事が私には大いに分かります。太宰治の人間失格は卑猥な本と種類は違いますけれど、同じくらいに恥ずかしい。恥ずかしいと微量にも思わず 大切そうに太宰の本を抱きかかえている女の子の時もありました。でももう 違うのです。しかしながら 私はまだ太宰に共感し得る箇所があるのが恥ずべき点です。太宰は もしかしたら こうやって反感を買うために内容を大いに誇張して書いたのではないか とまで考えてしまうのです。考えてしまう、という言い方だとまるで私は利口な脳みその持ち主である というような言い回しですが そういうつもりはありません。そういうつもりありませんが しかし そう思ってる箇所はきっとあるのでしょう。本当にそのような箇所を自分の中に信じていなければ私は今頃 自殺を試みているでしょうから。
話を戻しますと、癒しと逃げる事は何が違うのかという事です。精神病にかかっているかかかっていないかですか。食欲があるかないかですか。死にたいという感情の有無ですか。癒されに行こうと外に出る気力がある場合それは逃げですか。何も口に入らなくて一口飲んだあたたかい白湯で涙した時が癒しですか。やる事があるのにする気力が無いから と 今こうやって文章を書いて気持ちを吐き出しているのは逃げですか。
精神病にかかると一旦社会から離れて良いというのは何と楽なことでしょう。苦しむだけで良いのならばそれは逃げではないのか。弱い人間は気を抜けば 社会から外れた思考を選択してしまうのは当然の気もします。それをコントロール出来るのが大人というものならば 大人は本当に素晴らしい。感情のコントロールが出来るというのは 癒しと逃げの区別も付いていなくては出来ないことだと思うのです。しかし大人の中でも 強い人間というのは そんなことを考える必要がないのでしょうか。強い人を羨ましいとは思いませんが 怖いと思います。何を話せば良いのか分かりません。強い人の考えていることというのは純粋です。その純粋さ 私は怖い。あれは暴力に近いと思うのです。私の精神めがけて矢が飛んできたような気分です。しかし強い人は矢を飛ばしてる意識などないのも知っています。だから強い人は何も悪くない。無意識にしてるのだから仕方ない。弱い人間というのは一握りなのだから 大多数の意見に合わせるのが当然だ。ですから私が勝手に矢を作り出して そしてそれに苦しんでもがいているだけなのですから 悪いのは私なのです。別にどちらも悪く無い なぜ良し悪しを決めるのか という意見もあると思うのでしょうが 弱い人間というのは 誰かのせいにしないと生きていけません。その対象が自分に向いた ただそれだけのことです。(これは 前にも書きましたが 思考というのを変えるのには 何か大きな出来事が無い限り難しいような気がします。それでいて一度考えて それが習慣化したことというのは 普段は忘れることができているにしても 自分に不利な出来事が起こった際に ひょっこり顔を出してしまうのではないのでしょうか。習慣というのは 恐ろしい。) いやもしかしたら強い人も誰かのせいにして生きているのかもしれませんが それは無意識だから 気が付かないから 矢が自分に刺さらなくて済むのかもしれませんね。
虐待を受けた人が 精神を病むのはよくあることで それでいて当たり前のことだと思うのです。過保護というのも精神的虐待だと私考えているので 当たり前に該当します。しかし そうでない 一般的な環境で育ったにもかかわらず 精神に異常をきたす人間というのが 本当に弱い人間だ思うのです。弱い人間というのは 可哀想です。もともとハンデを背終わされているのです。みんな スタート地点から よーいどん!でかけっこが始まるのに 脚に重い鎖をつけて 最後まで走り抜かなければならない。それでいて重い鎖をつけているということが 理解されれば優遇されるのかもしれませんが そうではないのです。この鎖は全員が見えてる訳じゃない。ですから1人だけ走るのが極端に遅い子がいるわ となるのです。極端に遅いのですから 次の種目が始まろうとしてる際にも まだ走っています。場は白けます。走り終わった子は楽しそうにお喋りしています。私を見て 笑う子もいます。応援していた保護者や先生も もう飽きてきたような表情を見せます。その空気を一番 感じているのは誰です 本人です。あまり考えない方がいい というのは その空気を感じるな ということです。あまりにも難しい要求です。私が重い鎖を外せば良いのですか。では鍵はどこにあるのですか。そんなことを考えながら一生懸命走っても もう追いつけないのです。追いつけない中で 自分なりに喜びを見出すと それは 甘えだ逃げだ と言われるのです。頑張れ という声が飛んできて その人はヒーローになります。頑張ってるのに なぜ頑張らなければならないのです。どうしたら良いのです。私はもうボロボロなのです。この次のレースもその次の組体操も出たくありません。鎖でついた 傷口から 血がでるとやっと観客は心配し始めます。その血というのは 精神病の診断書です。私は棄権します。レースから棄権します。しかし運動会は続く。保健室で寝たらまた鎖をつけてレースに出なければならない。ベッドにいる時だけが 鎖を忘れることができる。鎖が重力によりベットに沈む。そのときだけです。私が楽になれるのは。鎖に慣れるしかないのでしょうか。最初は頑張って走れますけど 空気に耐えられなくなるのです。それとも鍵を探せば良いのですか。八方塞がりです。教えてください。血が出る前に保健室で休むのは 癒しですか 逃げですか。