ぐちゃぐちゃの心

わたしの心は今 ぐちゃぐちゃです。泣けば心は少し和らぐのかもしれませんね。支離滅裂とした文書を感情のままに書けば 心は少し和らぐのかもしれませんね。しかし 感情に流されるわけにもいきません。感情に大いに流されていたら 私はいつまでたっても涙を流し続けるでしょう。

 

しかし 涙を抑える喉がとても痛いです。

 

喉を痛みつけてる 自分の心が可哀想で可愛くて惨めで恥ずかしいです。しかし 嫌いにはなれません。私は 私の心を嫌いになれません。私が味わってきた 味わっている 苦しみの限界を超えた夜の海の世界。その世界は美しくはありません。むしろ その海には ついさっきまで生きていた 人間の生血が どろどろと流れています。通常の人間の思考回路ではないような思考がその血を飲み込み そして憎悪の塊の魚になっていきます。暗い世界というよりは 狂気に近い世界です。通常の判断が難しいです。そのような世界を知らない方が 人間は上手に生きていけるでしょう。明るい世界と暗い世界の2つを見ることができるでしょう。狂気の世界を見てしまうと その世界の空気が 永遠に付き纏うのでしょうか。忘れた頃に その世界に行くのは なぜでしょうか。もしかしたら その世界への切符を私は常に持っていて 自ら電車に揺られ その世界を観ているのでしょうか。ならばその切符を捨てればいいのでしょうか。しかし 捨てたくないのです。その切符を手に入れるにあたって相当な時間と体力と精神力を使ったのです。わたしの今まで生きてきた人生の一部分と言っても良いでしょう。そのわたしの人生の一部分を捨ててしまうというのは 何だか悲しいのです。あの時 考えた事 感じた感情 それにより生じた 私という人間の肉体と精神に生じた状態を 捨てろ というのは 暴力ではないですか。ですから その切符を誰かにあげてしまう事も私には出来ないのです。

 

しかしそれにしても言葉の概念というのが難しくて 今の私は 通常の会話が難しいです。私は眠れているのか 食べているのか 元気なのか。分からない。誰か判断してください。しかし判断する人間によって意見は様々だから 判断してください という言葉はきっと間違っている。だから 大丈夫です しか言えない。大丈夫 という言葉の中を見ずにそれを丸ごと食べる人間ばかりで 私の大丈夫という言葉を育てている畑はスカスカです。鬱陶しい。端的に書け。いつまでそこにいるんだ。そう思うでしょう。私もそう思います。恥ずかしいです。20歳にもなるというのに この有様です。下手な自虐ネタを聞かされた時より 数倍 これを読んでる貴方の心は優越感に浸っていることでしょうね。私はそうやって生きていくのでしょう。貴方方が私を心配した その言葉と精神が 私を傷つけているです。その言葉と精神は 貴方方が優越感に浸っているから 発せられるのです。私は無力です。何もできません。何故なら優越感に浸れないからです。私より下の人間を 見たことがありません。普段私は人を見下していますけれど それはもう 滑稽な程に見下していますけれど それは ただの嫉妬にしか過ぎないのです。ですから 私は誰よりも無力で無害で味気のない 空になった一升瓶のような人間です。それでも私は心だけはあるから 心を見て欲しい。しかし心を見てくれる人がいても 私はまた 傷つけられた等と 本当に面倒臭く 自己愛に溢れ 努力を回避しているだけの人間なのです。そう思えば私は努力ということがどうやら相当苦手らしいのです。山あり谷ありの努力というものは熟れると最高に美しく美味しいのを私は知っているつもりです。私だって食べてみたいです、努力。しかし いつもいつも邪魔する者がいる。紛れもなく それは私自身なのです。葛藤 と言ってしまえばそれまでですが ああ やっぱり私はただ単純にこれはモラトリアム期なのでしょうか。その言葉の概念の中に収まってしまうのでしょうか。では他の人間もこのように狂気の世界への切符を持って たまに観ているのですか?

 やはり弱い人間というのは 社会という大きな人間に食べられてしまう運命なのでしょうね。私はそれをどうしようも悔しく悲しく思いますし、それと同時に当然だとも思います。自分の弱さを受け入れる。弱さを受け入れてどうなるのでしょう。言葉で書くのは簡単です。受け入れてしまったら余計弱くなってしまうのではないですか。人が自分の心に向けた言葉を信頼しがちです。純粋で弱い生き物は弱々しく生きるしかないのかもしれません。私は こんな 看護学部などという 生命力に満ちた人間が集う場所で生きるのではなく NPOの社会復帰センターのようなところでボランティアとして働き、精神障害者手帳を持ち お金を貰い、身体にがたがくるまでフリーターをやる他なす術はないのでしょうか。何度も言いますが、弱い人間は、いわゆる「負け組」というクラスで生きていくのが 適切なのでしょうか。

 

私が考えて その人のためを思って抱いた感情や発した言葉。しかし その人はそこまで考えていなかった というのはよくある話です。深く深く見過ぎてしまい 私自身がその人より傷ついてしまう。しかし、お願いです。これだけは病気と呼ばないで欲しい。私の心は きっと誰よりも死にたくないのです。ぐちゃぐちゃの心ですけれど どうか見捨てないで欲しい。これは誰に向けてでもない、自分に向けてです。しかし負け組に入れば私の心は死ぬでしょう。人生は生きるかもしれませんが心は死ぬでしょう。心は生きて 死ぬのは人生の方です。人生が死ねばいい。うまく生きることが出来ない人間の心をぐちゃぐちゃにする社会が嫌いですけど、しかし、そこで生きることこそが、生きる、ということだと思うのです。楽しんでこそが人生だと言うために私はそう言っているのです。楽しいというのは 友達と遊んだり美味しいものを食べたりすることだけじゃない。むしろ、そんなことは楽しくない事の方が多いように 私は思います。しかしそんなことを考えても 所詮 弱い人間の戯言なのだから 何も意味がないのです。無なのです。この世に存在しないものとして捉えられるのです。最近は 毎夜毎夜 そういうことを考えては 朝起きて 何が何だかわからないまま日々を過ごしています。分かりません。私は私のことが分かりません。分かろうとすることが必要なことなのかも分かりません。もう分かりません。何も分かりません。ただ分かることは、最近、人を精神的に苦しめたいという思考がよぎることと、今日過呼吸になったことと、手足が痺れることです。