難しい言葉を使えば頭が悪く見え、否定的になれば笑われる、自己啓発の言葉は軽く、それなのに深い深い思考は無意味と言われる、信用できるのは、数字しかないのか。

 

書きたいことがたくさんあるのに、書く時間を与えられない。与えられない、というのは、しかし、人間にとって適切なことなのかもしれない。

 

秋の紅葉が観たい。

 

でも与えられた出来事がないと、観たいという意欲さえ沸かないのかもしれない。わたしは孤独に愛されていないということなのかもしれない。孤独を人より好んでいるように見られるかもしれないけれど、誰よりも孤独が嫌いなのかもしれない。だから孤独もわたしのことを好いてくれないのかも。しかしそもそも本物の孤独と和解する人間なんて存在するのだろうか。

 

 

秋の紅葉が観たい。

 

と強く思ったことが無かったから、観たいと思う決断に至るまでの自分の思考に驚いた。人にどの季節が一番好きかと聞かれた時、私は決まって夏と答えた。でも本当は夏より秋の方が好きなのかもしれない。私に強く影響を与える誰かが言った、夏が好きという言葉に強く縛られ、それを自分に投影して、あたかもそれが本来の自分の様に振舞っていただけなのか。四畳半の畳の部屋で、風で窓が震えて、ヒーターをつけるかつけまいか迷う、ユニクロのフリースを羽織ろうか迷う、薄暗いのに暖かいさみしさに包まれた迷いの部屋に隅々までひっそりといる秋には、優しい何かが潜んでる気がしてならない。いちょうのじゅうたんを踏んだ、あの、ほんとうに背が低かった頃の感覚を覚えている気がする。大人になればそれがなくなってしまうのならば、大人になるということに耐え抜くことが出来るのか、優しい秋が私からいなくなってしまったとき、数字だけで生きていかなければならないのか。数字の奥深くに秋が潜んでいても、熱燗を持って散歩しようと、ユニクロの安いのにあったかいフリースを着た秋が来てくれなきゃ、困る。