書いてはならないと分かっていながら書くことを、逃避というのなら、素敵な冒険をしていたね、と言ってあげたい。冒険をやめないで。でも、やはりそれを冒険と捉えるにはあまりにも夢の話なので、だれも現実の話だなんて信じてくれない。矛盾する2つを統合してどこかの答えに辿り着きたいという思いさえあれば、いつだって冒険家だ。旅を続けよう。

結婚指輪が光るあの女の人は旅を続けているだろうか。社会情勢を嬉々として語るあのサラリーマンの旅を旅と言っていいのか。無理矢理、歩かされてる人間達を哀れな目で見たり、嫉妬に狂った心で見てるので、私たちは疲れる。

旅をするのには軽装が良い。荷物はなるべく少なくしたい。そうした方がいろいろな景色が見える。

私たちは小さい頃、みんな冒険家だったじゃないか。どうして旅をやめてしまった。あの子が持ってた宝物、優しい顔した男の人に話しかけられて安い紙幣と交換したのを私は知ってる。あの子が大切に抱えていた本は、優しい顔した女の人に、表紙が綺麗な本と取り替えられてしまった。紙幣をもらって嬉しそうだった。「たくさん買えるよ!」綺麗な本と取り替えられて嬉しそうだった。「その本は世界一綺麗だ。」だから寂しい。冒険家が消えていく中で、しかし、冒険家を名乗るのをタブーとされるのは時間と共に大きくなる。冒険家じゃなくったっていい、誰しもが物語の主人公だったはずなのに、ひとつのおおきな物語で主人公は1人しか選べません!と何者かがいうから、今まで主人公だったみんなは、主人公になりたがる。争う。

 

争いは嫌いだ。という人間が、物語から消えようとすると、ほかの人々は、俺の主人公になるための物語の続きに困るから居てくれと、社会不適合のレッテルを貼って無理矢理閉じ込める。私たちはもともと自分達の物語の中で主人公を持っていたはずなのに、訳の分からない物語に引きずり込まれた。

しかしだからと言って、無理矢理抜け出すのはあまりにも無理難題だ。抜け出したくなるけれど、それでは旅が終わってまう。

じゃあどうするか。

みんなが争う中で主人公になる方法はたった1つ。争わないことだ。

争うのが本当に好きなのか?争うから私たちは物語の中でしか疲れられない。争うから私たちは物語の中でしか気が狂えない。それは虚像だろ。物語の中で争わなかった人間は疲れもしないし気も狂わない。物語の主人公になることに熱中しすぎでないか。それ以前に私たちは冒険家だ。私は確実に疲れたい。私は確実に気狂いするべきだ。なので私は争わない。

とりあえず後ろの方でボイコットのまねっこをして、片手でiphoneで次の旅の行き先を検索。教えてGoogle。airportsをしてればボイコットの内容は聞こえないのでスティーブ・ジョブズに感謝する。しかしボイコットの内容も把握しておかねば後々、スパイだ(社会不適合者だ)と疑われてしまうので、ボイコットに染まりきった機械人間のお話は聞いておくべきだ。たまにそうでない人間に出会うと私は嬉しい。ボイコットの内容だけでなく、電波越しの外の世界の話だけでなく、やはり生の旅の話が聞きたいし、生の旅の行き先を話したい。次の旅の行き先について話せる人間もいた方が良いだろう。私たちは誰しもが1人だ。旅は1人だから面白い。2人で歩いていても、3人で歩いていたとしても、その中には1人がある。

とりあえず何が言いたいかというと私はairportsがすごく欲しいということである。